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『稲澤文化博物館』デジタル展示室。常設展示準備 特別展


by famlkaga
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くぱぁの本義【補遺】

 風土記逸文とまとめられるテキストの中に、

五十鈴というのは、風土記にいう、−−この日、八小男(やをとこ)・八小女(やをとめ)たちが、ここに連れだって逢い、洒樹(いすすぎ)接(まじわ)った。それによって名とした。
(『風土記』平凡社ライブラリー 342頁)

 という項目がみられる。
 これは『萬葉緯』に引かれた「伊勢二所皇太神宮神名秘書」の個所らしい。
『萬葉緯』は今井似閑(じかん)による『萬葉集』の注釈書で今井は「風土記逸文」の蒐集でも知られる。「伊勢二所皇太神宮神名秘書」は度会行忠の著作で『風土記』岩波文庫によると、「五十鈴」のテキストは裏書きとして附載されていたと推察される。
 内容は神宮に仕える八小男・八小女たちが五十鈴川に集って(セクシャルな意味で)逢い、いすすぎ・まじわったことにより五十鈴川と呼ぶようになったという呼称の縁起譚であろう。
「この日」がいつなのかいまいちよく分からない。八少女は神社に使えて神楽を舞う少女を指す一般名詞で伊勢神宮にそくしていえば物忌(ものいみ)・子良(こら)と呼ばれる少女のことだろう。物忌の中には少年もいたようで八少女という言葉に引っぱられて「八小男」と表現されたのだろう。「洒樹」は原文では「泗樹」に作る。泗には孔子の故郷の川の名前の意味があり、つくりの四から分岐して液体が流れる意味がある。洒は「あら・う」「すす・ぐ」と訓ずることもできるので「いすすぎ」の語義はともかく「すすぐ」の音を借りたものだろうと判断したのだろう。この「いすすぎ」という言葉は『古事記』の中巻のホトタタライススキヒメの段に登場する言葉で、話の内容が大きく変化しても「五十鈴」と「いすすぎ」という用語の共通性という意味で構造的な相似性がみうけられる。
 東国的な嬥歌(かがい)を連想させる男女のセクシャルな集いが、サルタヒコとアメノウズメとも結びつきが強い「五十鈴」の語義解釈に使われることによって媛蹈鞴五十鈴媛のタタラという状態が古代的容貌として忘れられ、新たに組み替えられた中世的な記述のように感じる。
 3年前に、この記述に気づいていたら、タヽラの伊勢での中世的展開が、もう少し、なめらかに広がりを持って語れたのかもしれない。
# by famlkaga | 2019-11-21 19:13 | 『日本紀神名帳(抄)』

蘇民将来譚類話

 小倉紀蔵氏の『朝鮮思想全史』ちくま新書に、

新羅王(憲康王(ホンガンワン))が東海龍王の子である処容(チョヨン)に王政を補弼(ほひつ)させ、美しい女を娶らせた。ところが処容の妻があまりに美しかったので、疫神が横恋慕し、人の姿に化けて処容の不在の夜に こっそり寝床に入って共寝をした。処容が外から帰ってくると、寝床に二人が寝ている。それを見た処容は歌を歌った。

 東京(みやこ)の月あかるき夜、
 あそびて家に帰りて床を見れば足が四つ
 ふたつは わが妻の足にして ふたつは誰(た)が足ならむ
 もとは わが妻なれど 奪はれたれば いかにせむ

 このように歌うと、処容(チョヨン)は舞を舞いながら家の外へ出て行った。すると疫神が もとの姿に戻って処容の前に跪いていった。「わたしは あなたの妻がほしくて これを犯しました。だが あなたは これを見ても お怒りなさらなかった。わたしは あなたに感化され、美しい心を見ました。今後は あなたの形を絵に描いてあるのを見たら、決して その家の門には入らないことを誓います」このことがあってから、新羅では人びとが自宅の門に処容の形を貼り付けたところ、邪悪なものが家にはいることなく、福のみを迎え入れた。(103頁 『三国遺事』)

 寝取られ展開なので一見、蘇民将来譚とは異なるようにみえるが、事物縁起譚というか、誰かの子孫であるというトーテムを立てることで疫神や、わざわいを防げるという物語の必要性が蘇民将来譚と構造的に相似である。
 統一新羅の、この物語が直接、日本の蘇民将来譚の祖型ではないとしても、同根の物語から、1つは寝取られに、今ひとつは武塔神の、もてなせば福神だが、そしれば疫神になるという両義性の物語へと変換されていくのかもしれない。
 また、妻が寝取られたことに怒ることが、禁忌とみなされ、その禁忌を違反しなかったのが疫神を福神に転換するカギになっているのが興味深い。蘇民将来譚では武塔神の妻が龍王の娘だが、処容説話では処容その人が龍王の子であるが、ともに龍王に関係があるのが興味深い。

 個人的に、この記事と花郎(ファラン)の解説を読めただけでも十分価値のある読書だった。
# by famlkaga | 2017-12-02 19:54 | 『日本紀神名帳(抄)』
『先代旧事本紀』の対応箇所は、

「常世の長鳴鳥を聚めて、たがひに長鳴せしむ」とまうす。
 また、鏡作の祖・石凝姥命を冶工(たくみ)となし、すなはち、天八湍河(あまのやすかは)の川上の天堅石(あまのかたしは)を採る。また、真名鹿(まなか)の皮を全剝(うつはぎには)ぎて、もって天の羽韛(はぶき)に作る。
また、天の金山(かなやま)の銅(あかがね)を採りて、日矛(ひのほこ)を鋳造(つく)らしむ。この鏡は、いささか意(みこころ)にかなはず。すなはち紀伊国(きのくに)に坐(ま)します日前神(ひのくまのかみ)これなり。
また、鏡作の祖(おや)・天糠戸神(あまのぬかとのかみ)をして〔石凝姥命の子なり〕、天の香山(かぐやま)の銅を採りて、日像(ひのみかた)の鏡を図造(つく)らしむ。その状(かたち)、美麗(うるは)し。しかるに、窟戸(いはやと)に触(つきふ)れて小瑕(こきず)有(つけ)り。その瑕(きず)、今に猶存(うせ)ず。すなはち、これ伊勢に崇(いつ)き秘(まつ)る大神(おほみかみ)なり。いわゆる八咫鏡(やたのかがみ)。またの名は真経津鏡(まふつのかがみ)これなり。
また、玉作の祖・櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)に、八尺瓊(やさかに)の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)の珠(たま)を作らしむ。櫛明玉神は伊弉諾尊(いざなきのみこと)の児(こ)なり。(「神祇本紀」『歴史読本』付録 51頁)

「石凝姥命を冶工」にしたというのは書紀の一書、アメノヤスカワから「天堅石」を採るのは古事記、また一書にもどって、順番を転倒させて先に「天の羽韛」の作成を語る。「天の金山」は古事記に近く、「銅」とするのは拾遺に近い。「日矛」は紀の一書だが、あえて「鋳造」とする、「日前神」とするのは一書の通り、また拾遺を思わせる。
「天糠戸者(あまのあらとのかみ)」は書紀7段一書の第2にみえる。拾遺とは親子関係が逆。「天の香山」の「銅」は拾遺に準じる。
 この後の「その状、美麗し」からは管見、出典が追えない。「美麗」「窟戸」「瑕」など漢文の知識がゆたかというか、どことなく宮中というより両部神道のような神仏習合の影響下にあるテキストがプレとして存在したのではないか?
 内容は、状態は美麗であったが、岩戸にぶつけてキズが残っている。これが伊勢の崇秘の大神である。とする。
 八咫鏡の点検のおり、鏡にキズがあり、現状写真のように後出のキズではないことを証明する意図があったのか? また岩戸が登場するのでタヂカラオの岩戸開きの段にあってもおかしくないような記事である。
「八咫鏡。またの名は真経津鏡」は日本書紀の本文にある。

 1言でいえば「神祇本紀」『先代旧事本紀』は、なんでもありである。どのアイテムに着眼して、どの逸話を採用するかによって、いかようにも〈正統〉は導きだせるのである。三種の神器のような日本の〈伝統〉とされるような事象でも、依拠する典籍を捨てて、クロスチェックしていけば、まさにミス・リードに近い牽強付会のなかで〈正統〉も〈伝統〉も導きだされているのだ。
 今回は子供むけの訳に着眼してみたが、トランスレートの作法によって大きく「旧訳」と「新訳」があり、このような微細な差異に注目すれば、〈読み〉の段階で多様な分岐が存在したことが想定されよう。個人的には現在の『古事記』偏重というか、『古事記』を〈大和心〉の原点として神話のストーリーもクロスチェックなしの『古事記』が〈正統〉なテクストであるという考え方には懐疑的である。それは個人的に『熱田の深秘』を現代語訳しているように、テクストの多様さを逆に愉しむような段階にきているのではないだろうか?
『神道大系』やインターネットの発達で『古事記』以外のテクストへのアクセスは非常に容易になってきている。このことが、少しは子供むけの神話にも影響してほしいと思う。
# by famlkaga | 2017-11-23 13:57 | 『日本紀神名帳(抄)』
 個人的に現在のところ、子供むけの『古事記』の訳について、歴史時代への入り口という観点から考古学的な一般知識をふまえて、鍛造の鏡を登場させるには懐疑的だ。『古事記』のテクストが不完全であることを前提として他の典籍、註釈をクロスチェックした新たなテクストが必要に感じる。今回、試みに広訳と狭訳を提示してみる。

【広訳】
天安河(あめのやすかわ)の河上(かわかみ)の天堅石(あめのかたしは)をとって、天金山(あめのかなやま)の鉄(くろがね)をとって、鍛冶師(かじし)であるアマツマラをまねいて(日矛(ひぼこ)を作らせた(1)、また天香山(あめのかぐやま)の銅(あかがね)をとって、アマテラス大御神(おおみかみ)の像(ぞう)として(2))イシコリドメ命(のみこと)に命(めい)じて、鏡を作らせた、タマノオヤ命(のみこと)に命じて
((1)「神代上、第7段一書の第1」『日本書紀』、(2)『古語拾遺』)

 まあ、広訳は旧訳に準じるカタチになるのではないだろうか? 日矛との対応で鏡の銅の産地は必要な気がするし、「アマテラス大御神の像として」の部分は、「鏡を作らせた」の前段に配置してもいいのかもしれない。

【狭訳】
天安河(あめのやすかわ)の河上(かわかみ)の天堅石(あめのかたしは)をとって、(天香山(あめのかぐやま)の銅(あかがね)をとって(1))イシコリドメ命(のみこと)に命(めい)じて、鏡を作らせた、タマノオヤ命(のみこと)に命じて
((1)『古事記』本文では「天金山(あめのかなやま)の鉄(まがね)をとって、鍛冶師(かじし)であるアマツマラをまねいて」となっている)

 主眼は鏡を鋳造にすることなのでカナヤマヒコのように金属器の神というよりは鉄製品の神としての性格があるので「金山」よりは銅の産地として当時から認識されていた「天香山」の方がふさわしいように感じる。アマツマラと協力してとも、アマツマラが鍛造しようとして失敗したともできそう。

【艶訳】
天安河(あめのやすかわ)の河上(かわかみ)の天堅石(あめのかたしは)をとって、天金山(あめのかなやま)の鉄(くろがね)をとって、アマツマラをまねいて(その神の、み姿(すがた)を表(あらわ)して(1))イシコリドメ命(のみこと)に命(めい)じて、(日矛(ひぼこ)(1)を鍛造(たんぞう))させた、タマノオヤ命(のみこと)に命じて
((1)「神代上、第7段一書の第1」『日本書紀』)

 これが『古事記』なのか? と疑念がわくが、個人的にはこのような訳も可能だと思う。宣長は御正体は鏡であるという先入観から、日矛はホコで鏡ではないので、違うのではないか? とするが、『古事記』よりも『日本書紀』の一書の方が本来性というか古層を留めていて、『古語拾遺』のような状態に発展するのに『古事記』の錯綜はあるのではないかと考えると、古層の原体として復元的に、このような訳ができる。
 また、天津麻羅に「命」も「神」もつかないのが、宣長以来の不審で、個人的に、一般には仏語の「マーラ(障礙)」が由来とされるが「麻羅」には男根の隠喩があるのではないか?
# by famlkaga | 2017-11-23 13:07 | 『日本紀神名帳(抄)』
 依拠するテクストの不完全さに、どのように対処するか? 旧訳とは異なる立場の子供むけの現代語訳をみていくと、

つぎに、天の安の河の上流にある、天の堅石(かたしいわ)を取ってきます。このかたい石を台にして、熱くなった鉄を打ち、鏡(かがみ)をつくるのです。
 鉄のもとになる石は天の金山にありますから、そこへいってこれを取ってきます。これを火にかけてとかし、鉄を取り出して打つのは鍛冶屋(かじや)の仕事ですから、片目の鍛冶屋であるアマツマラを、神々は さがしにいきました。
 アマツマラの つくった鉄をみがいて鏡をつくるのは、いまの世(よ)の鏡をつくる人々の祖先(そせん)である、イシコリドメの命(みこと)という年よりの女神(めがみ)の仕事になりました。
 イシコリドメの命は、がんばって たくさんの鏡をつくりました。(橋本治氏『古事記』74頁 1993年)
(ルビを少し省いた)
「次に、鍛冶師(かじし)の天津麻羅を探してきて、鉄(てつ)を作らせてください。材料は この安の河の川上にある かたい岩と、天の金山*の鉄鉱石です」
 鉄を作る準備が整うと、思金(オモイカネ)は伊斯許理度売(イシコリドメ)を呼びました。
「あなたは その鉄をみがいて、八咫(やあた)の鏡(かがみ)*を作ってください」(奥山景布子氏『日本の神さまたちの物語』46頁 2012年)
それから、砂鉄(さてつ)を集めてきて、鍛冶(かじ)の神に鏡を作らせました。(時海結以氏『日本の神さま』29頁 2017年)

 仮に「新訳」とするが、テクストに、そくしてバカ賢くというか、過不足なく字義を追っていくような立場がある。管見、鍛造の鏡というのは記憶にないし、漢から中世・近世にいたるまで、鏡といえば銅合金の鋳造品が一般である。
 橋本氏や奥山氏のように、『古事記』のアウトラインに忠実であることを目的にするなら、時にバカ賢い系の訳も可能性として必要だろうが、時海氏や那須田氏のような娯楽性や創作性の高い訳で、考古学的な一般知識に違えてまで、鍛造の鏡を登場させるべきなのだろうか? 個人的に子供むけの訳は、その古典への入り口とともに、『古事記』であれば製作された奈良時代の世界・社会への、よき入り口であるべきではないかと考える。
 那須田氏は、

それから、鏡づくりの神に大きな鏡を、玉かざりづくりの神には勾玉(まがたま)が五百もつらなる玉かざりを作らせ、木に とりつけたのです。(那須田淳氏『古事記 10歳までに読みたい日本名作』 2017年)

 と、明記しないことで、なまじっか考古学的事実を担保している。
 また、管見、新訳で古いと思われるのは、

つぎに、天のヤスの川の川上(かわかみ)にあった堅(かた)い石を運んで来ました。また天(あめ)の金山(かなやま)の鉄(てつ)をとって来て、かじ屋のアマツマラという人をさがして、イシコリドノミコトに命じて鏡(かがみ)を作らせたり、タマノオヤノミコトに命じて(大久保正『古事記』47頁 1975年)

 大久保正の訳である。時代の限界というか、1度『古事記』の〈読み〉を『古事記伝』から解き放ってみるという、学問的な〈運動〉のなかの産物ということになるのだろうか?
# by famlkaga | 2017-11-23 12:59 | 『日本紀神名帳(抄)』